writer : techinsight

【名画クロニクル】実存を激しく揺さぶる勅使河原映画三作「おとし穴」「砂の女」「他人の顔」

我々は、同姓同名の人間がいたとしても「何某」としての自分はこの世に一人限りで、どんな土地や状況に置かれても自分は自分自身だと思っている。
しかし、その思いは、実は非常にあやふやで不安定な前提の上に成り立っており、その前提が崩れたときに、どう生きるかということは、もちろん普段は考えない。
そこで、そのことを考えさせてくれる映画として、勅使河原宏監督、安部公房原作、武満徹音楽による三作「おとし穴」「砂の女」「他人の顔」を紹介したい。

「おとし穴」は、1960年の三池闘争を暗示させる炭鉱が舞台である。井川比佐志演じる流れ者の炭鉱夫である主人公は、スクーターに乗った謎の男に理由がわからないまま殺される。

事件を見ていた駄菓子屋の女主人に対して、謎の男は対立していた第一組合の幹部の人相を話し、その男が犯人であるよう偽証するよう求める。そして殺された男は第二組合の幹部そっくりの顔であった。

殺された男は幽霊となって復活するが、もちろん生きている人間からは見えない。やがて遺体を見て第一組合の幹部の犯行だと騙された、本物の第二組合の幹部が互いに殺し合うが、最後まで事件の真相はわからない。

「他人の顔」は、大やけどで顔が傷ついた男(仲代達矢)が、他人の顔の人相を借りた仮面を作り、その本人になりすますが、アリバイ、つまり本物の顔の持ち主は別にいるので、何をやってもバレないという状況で、自分の妻を誘惑しようとする。

映画中のセリフで、「女が化粧をするのは、”自分には主張すべき素顔がない”ということをアピールするため」というものがあり、女性の化粧も演じるべき仮面の一つであるということである。

「砂の女」は、砂丘の昆虫採集にやってきた男が、蟻地獄を思わせる砂の穴の中に住む女(岸田今日子)の家に泊めてもらうが、それは村落の奸計であり、縄ばしごをかけてもらわない限り外へ出られない。

自分には戸籍謄本も住民票も住んでいる家もあるのだから、やがて捜索されるはずだと思っており、あらゆる脱出の方法を試みるが、成功せず、やがてその環境が自分の世界になっていく。

この三作を観て考えさせられることは、今ここにいる自分は、あらゆる意味で自分自身なのかどうかは、不確実であり、なにがしかの関係性の中でしか自分自身ではあり得ないということである。

三作の中で、最もシュールで、コミカルですらあるのは「おとし穴」である。

井川比佐志ファンにとってもマストな作品でもあり、武満徹監修によるプリペアド・ピアノ(ピアノ線にさまざまな物体を挟み込んで音を変調したピアノ)による音楽も、非常に効果的だ。

「砂の女」は、実質、岸田今日子と岡田英次のみで演じられる。
岸田今日子の謎めいた妖艶さが印象的であり、流砂の美と流水の美が対比的に表現されるシーンなどに、華道家でもある勅使河原宏の美意識が感じられる。

「他人の顔」の主役は仲代達矢である。本人の顔は人造の仮面という設定になっているのだが、本当にそう見えるところが、仲代の演技力を感じさせる。

この映画の中のドイツ風バーのシーンで歌われるワルツは、武満徹作曲によるもので、俗に「他人の顔のワルツ」として、武満ソングアルバムの中でも良く取り上げられる。
(TechinsightJapan編集部 真田裕一)