writer : techinsight

【名画クロニクル】黒澤映画のパロディではない真摯な映画「生きない」

黒澤明監督の不朽の名作「生きる」は、テレビドラマでは何度かリメイクされているが、映画でのリメイクはない。その代わり、90年代末に黒澤監督とは別のアプローチで「生きること」をテーマにした映画が2つ制作された。
ひとつは新藤兼人監督の「生きたい」、もうひとつが今回紹介する、清水浩監督の「生きない」である。
一種のパロディであるが、決して原作を貶める内容のものではない。それぞれ「生きること」の意味を真摯に問うた名作である。

「生きない」は、多重債務を抱えてもはや返済の当てもなく、事故を装った自殺で保険金を得て、その金で債務(そしてこの世)から逃れようとする人が集まった闇の沖縄バスツアーが舞台である。

タイトルの通り、生きることを放棄した人々がこの世の最後の想い出に沖縄観光を楽しんでから、オサラバしようとするのだが、そこに事情を全く知らない女の子 美つき(大河内奈々子)が紛れ込んだところから、この物語は始まる。

もちろん、美つき以外のツアー客(運転手とバスガイドも含む)は、心が弾むはずもない。最初は白けたムードの中、バスツアーが続く。

しかし、バス内でヤケクソの「昭和枯れすすき」を歌ったり、温泉宿で一芸披露大会をやっているうちに、いつしかツアー客には兄弟のような絆が生まれてくる。

一方、添乗員の新垣(ダンカン)は、淡々と事務的にツアーをこなしていくのだが、おもわぬアクシデントで無関係の人を死なせてしまってから、風向きは一変する。

そして、最後におもわぬどんでん返しが待っていた。

黒澤映画の「生きる」も清水浩の「生きない」も、肉体が生命活動を続けているという意味での「生きる」と、人間が人間として「生きる」ことは、別次元であるということを表現しきっている。

やや哲学的に言うならば、「生きている人間」は「死んでいない」のであり、「死んでいる人間」は「生きていない」のである。

映画「生きる」も映画「生きない」もそうしたことを深く考えさせられる、非常に思索的な作品なのである。

これが初監督作品となる清水浩も、脚本のダンカンもともに巨匠 北野武監督の薫陶を受けた人たちである。

北野映画の作風に通じる大胆な省略技法を使っており、そこが独特の魅力にもなっている。

なお、新藤監督の「生きたい」は、老人問題を通して生きることの意味を問うており、黒澤監督の「生きる」、新藤監督の「生きたい」そして清水監督の「生きない」を3本セットで見てみるのも、なかなかよいものである。

(TechinsightJapan編集部 真田裕一)