エンタがビタミン

writer : maki

【エンタがビタミン♪】まだまだアル! 元気の出る『間寛平アースマラソン語録』

間寛平が挑戦したアースマラソンでゴールした1月21日から10日が過ぎた。約2年もの間、地球の大陸と海を股にかけながら彼が口にした名言は数知れない。これまでに取り上げられた寛平語録を含めて少し違った角度から彼の言葉を追ってみた。

まずは『感動編』から。アースマラソン半ばで前立腺ガンが発見された際に寛平が口にした言葉には心を打たれた。
「どうせ死ぬんやったらわし、走りながら死にたい」(妻光代さんから『走るのをやめて』と言われて)と寛平は走る事を選んだ。そんな時に医師からガンについて詳しく説明を聞いた彼は「病気と走るという事は全く別物と先生に聞きました。めっちゃうれしかったです」と覚悟を決めるように口にした。

そんな寛平が日本に着いて母と2年ぶりの再会を果たした。彼は「帰ってきたで。健康で元気な体に生んでくれてありがとう」と母に告げるとお互いに号泣したのである。
寛平はガンと闘いながら走り続けた事について聞かれると「俺が参ってしもたら病気で頑張っている人たちもよけいに参ってしまうから。自分が頑張らなアカンと思うた…」と答えた。
彼は過酷なマラソン中に自分よりも人々を優先して考えていたのである。福岡に上陸してゴールの大阪まで各地でイベントに出演しながら走り続けた彼は、子どもがたくさん集まっていた事に触れてこう話した。
「子ども達が『61になって。病気なって。それでも地球一周したおっちゃんや!』と覚えてくれると嬉しい」そして彼らが成長して苦難に出会った時に「『あのおっちゃんに比べれば、こんなんで参ってる場合じゃあらへん』と思ってくれたら最高ですね」と。

アースマラソン最終日となった1月21日に、第1ゴール会場の大阪城音楽堂へと向かう寛平は道端で声援を贈る人々に丁寧に対応して速度が著しく落ちた。
ゴール会場で待ち受ける芸人や関係者らは『市民のみなさんどうか寛平さんを走らせてあげてください』と訴えていた。だが、当の寛平はこう話していたのだ。
寛平は「2年の間に日本人がどうしてこんなに元気がなくなったのか?」と思っていた。彼は「僕の事でみんながもし元気になってくれるんだったら、ハイタッチをしたい、握手をしたい」と言っていた。
彼は自ら進んで人々とハイタッチをしながら、声援に応えて走ったのである。

余裕とも思われる状態でゴールを果たした寛平だったが、先輩の笑福亭仁鶴には「ホンマは灘波から梅田まで走るのもしんどい」と本音を明かしていた。彼は最後の最後まで自分と闘いながら走っていたのだ。

そんな寛平語録には『地球規模編』ともいえる、スケールのデカさを感じるものも多い。
「ホンマに丸いって肌で感じますよ。東に向かって走ったらホンマに西から帰ってくるから」今年1月4日に福岡から日本入りした時の寛平の言葉だ。
彼が「地球は丸かった」と言った後でそれをさらに詳しく表現したものである。こんな表現が出来る人間は世界でも寛平と飛行機のパイロットくらいしかいないだろう。

また「日本に帰ってこれたのは奇跡以外のなにものでもない」と言う寛平は「同じ事を誰かがやったら必ず死ぬ」と言い切った。
さらには「もう一度地球一周をやれといわれたら?」と質問されて「それは地球に失礼や!」と答えたのである。
地球を相手にしてきた男にしかできない発想ではないか。

実は彼の偉大さを最も感じさせてくれたのが『お笑い語録』ではないだろうか。
「アイアムクレイジー」は日本で大阪をスタートして千葉へと向かう途中、路上で声援を贈る人々に対して返した言葉だ。
そしてマラソン中に61歳の誕生日を迎えた彼は「心も体もロックやから、飛ばしますよ」とますます意気盛んな言葉を発した。これはお笑いというより、彼のバイタリティーの源を感じる。

アースマラソンを走り終え大阪城音楽堂へゴールした寛平を、大阪市長が出迎えて花束を贈った時の事だ。
市長から「是非大阪マラソンに参加していただきたい」といきなり提案された寛平はキョトンとして「すみませんありがとうございます。もう、走るの飽きました!」と返した。これも彼にしかできないユーモアたっぷりの返事だった。

そして寛平語録は世界でも広く知られた。「ブレインバーン」(脳みそバーン)や新作「パンプキーン」といったギャグである。
「アメマー」を寛平と叫んだ外国人は一体どれほどになったのだろうか? 寛平のギャグは世界に通用する事も実証されたのである。

寛平は最終ゴール地点のNGK(なんばグランド花月)で「これからはひとつひとつ、いろいろな事を伝えていきます」と話していた。
これからバラエティ番組に出演する彼からそんな世界でのエピソードも聞く事が出来るだろう。楽しみである。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)